ミロスラフ・クベシュ
人間よ、汝は誰ぞ
ミロスラフ・クベシュは1927年、南ボヘミアにあるボシレツという村に生まれた。幼い頃、彼は「もし将来、貧乏だったなら、放浪者になるんだ。でも、もしお金持ちになったとしたら、旅行家なるんだ」と言っていた。このことは世界を知りたいという彼の願望を表していた。自然に対する親しみとともに、基本的な哲学にも関心があった。例えば、世界における彼の役割とは何か、物事を知るとどこへたどり着くのか、何を切望し、何を信じるのか、というような疑問を抱いていた。
戦時中に小学校を終え、父親の勧めで壁職人になるための勉強をし、工業学校を卒業した。彼はそれに満足できず、プラハへ行き、哲学を学んだ。最終的には博士号を取得し、哲学が彼の職業となった。そして運命の1968年まで大学で教鞭を取った。1968年以降、「全てがひっくり返った」と彼は言うが、彼の名はブラックリストに載り、大学を放校になってから年金生活者となるまで、建設会社をいくつも渡り歩くことになった。
クベシュが写真に出会ったのは初めてのカメラを手に入れた戦後まもなくであった。そのカメラを手に、彼が育った南ボヘミアを自転車で回った。池、川、水、全てが彼の写真のモチーフとなり、作品に反映された。彼の最初の写真には鋸で木を切る父親と池のほとりで洗濯をする母親が写っていた。写真は彼の趣味となり、写真を撮ることを通して、自分の周りの人々や彼らの生活を知るようになっていった。正しく言うならば、彼はアマチュアで、彼は賞賛されるために写真を撮るのではなく、愛情を示すために撮った。彼の写真への情熱は1960年代に最高潮を迎えた。フレクサレットを使って撮った写真は後に報道資料としてニュース映画にもなった。
クベシュが風景写真を撮るときは伝統的な様式美を重視し、反対に人物のドキュメンタリー写真を撮る際には社会学的観点に目を向けた。山小屋を持つ村ではなく、プラハという都会に暮らしたが、それは誰を撮影しても誰も気にしないという印象からだった。そして偶然的な写真を撮ろうと努めていた。写真の中では人々が自然に振舞い、自分自身に集中し、周りに気を留めていないことが彼の基本方針であった。哲学者として、現像前にはそれぞれの写真を理論的に理由付けした。その時代の人々の人生におけるコントラストを探そうとしていた。集団の中の孤独や、面白さの中の退屈、幼少時代から老年期への人間の人生がクベシュの写真のメインテーマとなっている。例えば、フフリにある競馬場での写真には馬は全く映っておらず、観客のコントラストや心情など、社会描写をいつも撮っていた。
クベシュは時間や人種を超えて、人というものは社会を必要とする生き物だと捉えている。存在する意味があってしかるべきで、その存在性があればあるほど、その個人はより充実するという意見を彼は抱いている。カメラは、人々の顔や人間関係、一瞬の出来事や何百年も続いてきた人間の価値を変えるような状況を捉えるが、そのカメラを通して自分自身の哲学的疑問に答えようとした。例えば、カメラは退屈、孤独、傷心、愛、嫉妬といった人間の性質を捉えることが可能である。答えは写真上で探したが、その写真は未だかつて公の場で展示されたり、出版されたことはなかった。そのため、言ってみれば、彼の作品は箱の中にしまわれたままで、多くの写真は展示用の大きさに現像されることもなかった。彼の写真は実際には今日まで有名にはなっていないが、専門家の間では名の知れた存在であった。彼は60年代に定期的に芸術に関する論文を発表しており、季刊誌「レヴュー」に写真を載せていた。
再発見されたミロスラフ・クベシュの作品は大変パーソナルなもので、詞的な結びつきが高い芸術性となっている。彼のテーマのいくつかは言ってみれば時代を先取りしている。繰り返されることのない1960年代のプラハの日常を写真によって記録した。それゆえ、私は彼の写真を当時報道写真家であったダグマル・ホホヴァー、ミロニュ・ノヴォトニー、レオシュ・ネボル、パヴェル・ディアス、ヤン・バルトゥーシェク、ミロスラフ・フツェク、イジー・イェニーチェク、K.O.フルビーなどの写真と比較したいと思う。彼の作品はチェコの写真の歴史に匹敵すると私は思っている。近年、忘れ去られていたイジー・トマンやグスタフ・アウレヒラらの写真が公開されたことにも通じる。上記の写真家らに共通するのは、日常を写したということだ。写真報道エージェント・マグナムが彼らの手本となり、1955年には「人間家族」という写真展が開催された。アメリカの主観的報道写真家ロバート・フランク、ウィリアム・クレイン、ルイス・ファウレル、ゲリー・ウィノグランドらの当時の写真は実際のところ、60年代には有名ではなかったため、60年代のチェコの報道作品の発展に影響を及ぼすことはなかった。
ダニエル・シュペルル